2018
9
Aug

写真雑記

もっと自由でいいのに

今月号のアサヒカメラは”脱・風景写真のススメ”と題し、現在の風景写真の有り様について論じ特集が組まれています。

今年1月に写真家、清水哲朗さんが同誌に寄稿した記事、「風景写真をダメにした戦犯たち」の続編とも言えるような内容でした。


清水哲朗さんご自身も、今月号に続編記事を書かれています。

写真雑誌も定期的には買わなくなって久しいですが、この二冊のアサヒカメラは本当に久々に購入したカメラ雑誌でした。

まあ詳しい内容は雑誌を買ってお読み頂くとしてですね(笑)
なかなか興味深く拝読しました。

自分自身も”風景”は撮ります。フィールドの中に身を置くことも好きです。
いわゆる、”撮影地巡礼”のようなことに興味はありませんが、結果として、同誌が憂いている”没・個性”の風景写真になっているのかもしれません。

 

 

 

個性があろうがなかろうが、本誌内の記事で”時間の無駄”と断じられている名所めぐりだって、それを撮りたいのならばそうすれば良いし、したくないのなら自分の場所を探せばいい・・・って随分投げやりだなぁおいと思われると思いますが、それが私なりの答えです。

要するに、もっと自由でいいんじゃないかってことですね。 
風景写真に限らず、特に日本人は写真とは”これこれこういうお作法で、このように撮らねばならぬ”という一種義務感が強すぎるんじゃないかと思うわけです。
風景写真のヒーローのように撮らなければならない義務、そして、そこから脱・風景写真しなければならない、というこれも義務。
レタッチしてはいけない義務、トリミングしてはいけない義務、三脚に載せなければならない義務、構図はこうでなければならない義務・・・数限りなく。
ある意味、日本人的気質は感じますね(笑)
場合によっては義務感を通り過ぎて宗教レベルに発展しているケースさえあるようなないような。

 

例えば、私自身はこの一枚にこのメッセージを込めているからそれを読み取って欲しい・・・・というのも、実はあまり無かったりします。
虚空の庭なんて本当にそんな感じです。

いや、そいうのがある写真もあります。東北を撮っている再びの光のシリーズとか、kindleで出した写真集”Border”とか。

 

つまり、手段としては結果として”写真”を使ってはいるんですが、シャッターを押している動機と衝動が全く異なるんです。
私という個人の中でさえそうなのだから、100人フォトグラファーがいたら100個以上の動機と衝動があるんです。

支離滅裂ですが(笑)強引に結論すれば、つまらない義務感に囚われないで、自分の動機と衝動に正直に、もっと自由に写真撮れば? っと。
もちろん、これこれこう言う機材を使ってこのフォーマットで撮ってね?とご指定があるようなお仕事で、傾奇者になってはいけないと思いますが(笑)

そうして撮った写真が、没個性の風景写真と言われればそれまでだし。
好きだ、と言ってくださる方がいらっしゃればとても嬉しいし(そして図に乗るw)
私という個人がそこに写っていると他人から認識されれば(自分から言うのではなく)、フォトグラファー、写真作家として世に認知されるのだろう、と思います。

 

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