2017
31
Jul

お知らせ写真

”虚空(こくう)”について

前々回のblog記事で、自分の個展のご紹介をさせて頂きました。
展示の内容や、関連する情報について、少しずつ書かせて頂こうかな、と思っています。

まず、タイトルの”虚空の庭”です。
虚空=こくう、と読みます。サンスクリット、アーカーシャ(Ākāśa)の漢字訳として当てられている言葉です。

仏教上の定義では、
 ・何もない(形、色すらない)空間
 ・何もないが、妨げるものものがなく、すべてのものの存在する場所。
ということになっています。何だか矛盾しているというか、難しいお話ですね^^;

すべてのものが存在する場所、なので、我々自身も虚空の中に存在しているとも言えますし、形がない、色もない世界というのは、そもそも3次元の空間しか理解ができない我々からは想像することすら困難な世界とも言えます。
数学的にアプローチするなら、例えば二乗すると負になる虚数、複素数のような世界がそれに当たるのかもしれません。

虚空という言葉を知る以前から、空想癖傾向が強い私は(笑)我々を含む生命体も、私が今吸い込んだ酸素も、今この文章を作っているPCも、そしてPCを動かしている電気も、全ては素粒子から構成されていて、それがどのように結合して安定した存在になっているのか、で生命体になったり、無機物になったり、空気になったり・・・つまり、この世の中にはゴチャマンと物が溢れているように見せかけて、実態はただ素粒子がうようよ漂っているだけなんだよね?と考えたことがあります。

虚空、という言葉に出会った時に、あーこれかな?と思いました。

つまり、我々が目にしている空間には森羅万象ありとあらゆるものが存在しているように見せかけて、本当はただの”粒”が虚空という、全てが存在し得る何もない空間にふわふわ漂い、長い時間軸上で固まっては離散していっているだけ・・

今回の展示作品は、そんな私の空想を、写真という手段を使って具現化する試みです。
 ・虚空という空間に、私たち自身を含んで、物質はどのように存在しうるのか?
という、それこそ釈迦の手のひらを歩くような内容をテーマにしています(笑)

一方、今まで、多くのケースで植物を被写体に選んできました。
これは、私自身が植物に対してその造形や色彩に対して単純に撮りたいという衝動を感じるものがあること、そして生命体として怖れ、畏れを感じる存在であり、自分の写真作品の被写体として、最も”美しさ”を感じる対象だからです。
自分が最も慣れ親しんできた被写体が、虚空の中ではどのように存在しうるのか?と、始めたのが今回展示する”虚空の庭”です。

手法としては、植物を撮影したのちにモノクロ化し、さらにそのイメージをポジ・ネガ反転させた上で、プラチナ・パラジウムプリントしています。このような段階を踏むことで、植物に当たった光の部分を”黒”として抽出し、それをプラチナ、パラジウムという原子・・すなわち素粒子の集合体として現します。
これによって、素粒子が”たまたま”この形として群になったから、これが植物という物体として知覚され、存在し、命を宿している、という感覚を出そうと試みています。
別にプラチナ・パラジウムプリントでなくても、どんなプリントでも素粒子なんですが、何となくプラチナ、というその響きが粒子感強いかな、と・・(笑)
あとはグレーの階調を幅広く使うイメージ群になるので、そのような表現には非常にこのやり方は向いています。
このシリーズはゼラチンシルバー、インクジェットでの制作も試みました。これらの手法の方がダイナミックレンジとしてははるかに広いし、黒もいわゆる黒として締まることは数値上も見た目の上でも明らかではあります。が、グレーの部分の豊かさやデリケートな移ろいが、一番プラチナ・パラジウムで制作するのが良いように感じています。

まあこのような背景はありますが、空想癖のある作者とあまり小難しいことは横に置いておき。

単純に、これらのプリントが皆様の目にどのように映るのか・・まずは見に来て頂ければとても嬉しいです。
このシリーズは過去2度の展示があり、都度賛否両論頂いているシリーズなのですが、”モノ”としては概ね良い反応を頂戴しております。
なお、今回はプリント20点全て新しく制作して展示します。過去作成したZINEの中に入った作品も数点はありますが、大半は今年になってから撮影した新作を展示する予定です。

次回は、手法として用いているプラチナ・パラジウムプリントについて少し書きます。

 

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